意識高い系のYouTubeチャンネルは好きですか?
僕は大好きです。「これ見てるって友だちに言ったらちょっと恥ずかしいかも……」と思いながらも、空いた時間やお風呂に入る時などに2倍速で意識高い系動画を再生しています。主にインデックス投資や副業について勉強しています。
ただ、僕はそういう動画を参考にしつつ、「胡散臭いな〜」と思ってしまいます。斜に構えて見ています。そういうのが一番ダサいって分かっているのに、この態度が辞められません。助けてください。
紙に書き出すと悩みは解決するのか?
そんな意識高い系YouTubeチャンネルの人たちが語る言説の一つに「悩みがあったら全部紙に書き出せ」というものがあります。
おそらく何かの自己啓発書に書いてあるのでしょう。僕は「へー」と思いつつも、その教えを一度も実行したことがありませんでした。そんなことをしても何かが変わるわけないじゃないか、と馬鹿にしていました。
でも、この手法はもしかすると意味があるのかも……? と思う出来事が先日あり、自分のために「書く」ことの意味を考えています。
それは、クローゼットの中を片付けていたときのこと。「とりあえず見えなければ良い」という気持ちで長年うず高く積み上げているガラクタたちの中から、一冊のスケジュール帳を見つけました。中にはチケットやらレシートやらメモ書きやら様々なものが挟まっていて、パンパンに膨れ上がっています。開いてみると、どのページにも文字がびっしり。
それは僕が人生で5回くらい使っているスケジュール帳の「EDiT」。1日あたり1ページが割り当てられています。本当に大好きなシリーズなのですが、僕はこの手帳を使いこなすのが下手くそで、1〜2ヶ月単位で何も書かないこともザラにあります。その度に「あーあ、あんまり使わなくて損しちゃったな」と思って1年を終えるのですが、この黒いEDiTだけは、なぜかどのページも文字で埋め尽くされているのでした。
一体いつ使っていたスケジュール帳なんだろう。確認してみると、2016年のものでした。僕が新卒2年目だった時のスケジュール帳です。
仕事が本当に無理だった新卒2年目
当時の僕は、20代前半にありがちな謎の全能感に支配されていました。イラストが描けるわけでもない、面白い物語が書けるわけでもない、でもとにかくクリエイティブな仕事がしたい! という思いで、新卒で小さな印刷会社に就職。「コミュニケーション苦手だけど、根性叩き直すなら営業っしょ」という理由で、営業職を選びました。
ところが僕は全くのポンコツで、納品先に持って行く荷物を忘れたり車で道に迷ったりということは日常茶飯事。営業のなんたるかも分からず、人付き合いも悪いので、「あ、こいつ営業は無理なんだな」と職場の人たちが考えているのが伝わってきました。根性を叩き直すのって難しいんですね。
そうして2年目には営業から外され、企画を行う部署へ。これでクリエイティブな仕事ができるぞ! と思っていたのですが、その部署はデザイナー上がりの人たちばかりで、クリエイティブなスキルを何一つ持たない僕は営業時代よりもつらい気持ちを味わっていました。
たぶんあの頃が、人生の中で一番つらかった時期だと思います。その後に転職してまあまあハッピーに暮らすので今となってはそれも思い出のひとつなのですが、その暮らしがずっと続いていたらどうなっていたんだろうかと考えるとぞっとします。ストレスのせいか3ヶ月で10kg痩せ、その後また3ヶ月で15kgリバウンドしたりしていましたからね。
この黒いEDiTは、そんな時代に使っていたスケジュール帳です。
色々なことが書いてあったけど、しかしそこには別に僕の弱音が連綿と書き綴られているわけではありませんでした。また、自分を客観視しようと思って考えたことを殴り書きしていたわけでもありません。ただ、もう狂っているかと思うくらいメモ書きがされているのです。
メモの内容も様々で、その日仕事で言われたことだったり、受けた電話のメモだったり、読んだ本に書かれていたことの走り書きだったり。とにかく、僕の主観的な言葉はほとんど記されていませんでした。それは単なるメモの集積でした。でも、僕はそのメモたちを読み返してみて思ったのです。
ああ、僕は書くことで生き残っていたんだなあと。
ちなみにスケジュール帳には、以下のようなことが書いてありました。
・LP→文字情報がないので、SEOと相性が悪い。リスティングとの相性が良い。
・(要確認)後々は管理番号をつけて下版 データに書き出し→印字
・12:00〜 YouTube勉強会。フィードバック勉強会も後に社内で担当(現地集合)
生き延びるために書く
▲ごくまれに詩のようなものが書かれている。疲れている。
僕の好きな本に、穂村弘さんの『はじめての短歌』という短歌の入門書があります。短歌を作った経験がめちゃめちゃあるわけではないのですが、折に触れて思い出す本です。この本では繰り返し、短歌には『生きる」ための言葉が必要なのだということが語られます。そしてその反対側にあるのが「生きのびる」ための言葉。では、この違いはどこにあるのか。
短歌においては、非常に図式化していえば、社会的に価値のあるもの、正しいもの、値段のつくもの、名前のあるもの、強いもの、大きいもの。これが全部、NGになる。社会的に価値のないもの、換金できないもの、名前のないもの、しょうもないもの、ヘンなもの、弱いもののほうがいい。
(穂村弘『はじめての短歌』 p46)
僕のスケジュール帳に書かれていた言葉たちは、すべて「生きのびる」ための言葉たちでした。仕事に役立ちそうなメモなどで全てが埋め尽くされていた。必死にもがきながら、生き延びるために必死でメモをとって書き残していた。その涙ぐましい努力の跡がそこに見られるのでした。
今でもメモを取るのはそれなりに好きですし、習慣化された行動の一部です。でも、新卒2年目の時ほどの必死さはありません。それは、僕が比較的穏やかな気持ちで仕事をし、日常生活を送れていることに起因しているでしょう。ゆえに、それから見ればあの頃の異常さが際立ちます。
書くことは生きのびることに繋がる。反対にいえば、僕はあそこで書かなければ死んでいたのかもしれない。書くことに僕は生かされたんだ。今ではそう思えます。
「生きる」ことは贅沢品です。まずは「生きのびる」ことができなければ、そこにたどり着けない。そして「生きる」ためのことばを書くためには、まず「生きのびる」ための言葉を延々と書いていかなければならない。そしてもちろん、「生きのびる」ためのことばも僕にとって大事なことだったんだなあ、と思いました。
文:atohs(@atohsaaa)