出会い系、出会う前がいちばん楽しい説

出会い系、出会う前がいちばん楽しい説

最近めっきり出会い系で出会えなくなった。

というか、そもそも出会い系で出会おうという気がなくなってきてしまった。YOUは何しに出会い系へ? と友人達から呆れられることもしばしばだけれど、出会い系から卒業できないのには、もちろん相応の理由があるのだった。

一般に「出会い系」とは、インターネット上で恋愛や性愛、あるいはそれらに類する関係を築く相手を探すためのサービスを指す。この文章でわたしが語る「出会い系」も、基本的にはそういったものをイメージしてもらって構わない。強いて言うのであれば、わたしが利用したことのある出会い系サービスはいずれも女性と出会いたい女性向けのもので、異性と出会うためのサービスについて詳しくは知らない。

わたしが知る限り「友人募集」「サークル募集」といったカテゴリーを設けているサービスもあり、利用者の全員が必ずしも色っぽい出会いを求めているとは限らない。とはいえ、やはりメインは「恋人/恋人候補」の募集や「ワリキリ」と呼ばれたりする性行為を目的とした募集になるだろう。わたし自身もここに挙げたさまざまな種類の募集に応じてきた。また、自ら募集を行ってきた。素敵なおもいをしたこともヒヤッとしたこともたくさんあったけれど、自分を良く見せようとするのにも疲れてしまったし、「実際会ってみたら好きになれるかな」と賭けるような心持ちで初対面の人に会うのもうんざりしてしまった。そんな不確かなものに限りあるお金と時間を費やすくらいなら、推しに捧げた方が良い! という気持ちもある。

だが、それでもなおわたしは出会い系をやめられずにいるのだった。いったいなぜ? むろん、楽しいからである。出会い系における、「出会う」前の行程――つまり「リアルで会う」までのありとあらゆる過程をわたしは愛しているのだ。リアルで会おうとなったら、途端に気が引けてしまうにもかかわらず。

そう。出会い系は、出会うまでがいちばん楽しい。

冷やかしで利用しているつもりはないし、良い縁があればあわよくば、ともおもっている。けれども先に書いたような事情と、ここには書くのを憚られるような事情(募集するたびに同じ相手から「なめこさんですよね? どうしていつもお返事くれないんですか?」と怨嗟のこもったメールが送られてきたり、それとは別の相手に名指しで「地獄に落ちろ」と書き込まれたりなど)から、いわば出会い系疲れをしているので、あまり前のめりになることはない。

じゃあ何をしているのかというと、主には出会い系サービスに集うひとびとの投稿を眺めている。気になる募集があればときどき応募して、話してみたりもする。けれども「実際に会おうか」という話が出る前に、どちらからともなくフェードアウト……みたいなケースが多い。この一連、つまり出会い系で出会う前のやりとりがなんともいえず楽しいのだった。いや、楽しいというのは適切ではないかもしれない。一言で説明するのはとても難しいのだけれど、ときどき、出会い系ですれ違った見ず知らずの誰かとさみしさを共鳴させることができたように感じるのだ。

出会い系では日々切実なやり取りが交わされている。自分を魅力的に見せる――というよりは「読ませる」ために界隈特有の語彙を使ってプロフィールを紹介すると同時に、募集する相手に求める条件もこまかく提示する。顔も見えなければ声も聞こえない場所で、頼りになるのはことばだけ。サービスによっては投稿者の顔写真を掲載できるところもあるけれど、わたしは文字情報メインのサービスを愛用している。その方が、出会い系に集うひとびとのことばをより生々しく感じられるとおもうからである。

まず、募集内容を読むのが楽しい。特に募集対象について言及した部分にはそれぞれの欲望のかたちがあらわれている。年齢、居住地、属性(フェムなのかボイなのか、タチなのかネコなのか……詳しい説明は省くがとにかくまあいろいろあるのだ)など、基本的な情報に終始しているものもあれば、「お互いの価値観を尊重できる人」「一人の時間を大切にできる人」など抽象的な項目を挙げているもの、「とにかく支配されたい」「従順なペットがほしい」など踏み込んだ内容を記しているものもある。

この人はこんなことを求めていて、あの人はあんなことを求めている……「わかるわかる」と共感しながら読み進めたり、「いくらなんでも高望みだよ」と突っ込みたくなったり、「この募集書いた人知り合いかも……」とドキドキしたり、十人十色の書きぶりがおもしろい。さらに、「話してみたい」とおもった募集の書き手に連絡をしてみて返信が来たときの興奮は他では味わえないものがある。もちろんそこでも、実際にことばを交わしてみたら募集文(ないしは応募文)とイメージが違った、ということはありうるんだけれど。

出会い系で繋がった相手とは、たいてい使い捨てのメールアドレスや、LINEとよく似た別のコミュニケーションツールでやり取りを重ねる。むかしは自己紹介もそこそこにいつどこで会うかだとか、どんな風にするのが/されるのが好きだとか、即物的な話題に移ったりもしたけれど、さいきんは大体のんびり話している。今日食べた美味しかったもの、職場の愚痴、過去の恋愛経験、じぶんが「ヘテロじゃない」ことに気付いたきっかけ……などなど。後半の話題は誰にでも打ち明けられる、という内容ではないけれど、かといってものすごく特別なテーマでもない。要は当たり障りのないことをだらだらと書き連ねているだけなのである。そんなメッセージを何往復も交わしてしまうと、「会おう」という雰囲気にはなかなかならないものだ。

この人と恋仲になることはなさそうだし、いつかきっと縁が切れる。でも、それは今じゃない。たぶんお互いそんな気持ちで別れを先伸ばしにしている――いや、別れというほど大層なものじゃない。メールアドレスを変えるなりブロックするなり、もとより一分足らずの操作で全て無かったことになってしまうようなかぼそい縁なのだから。けれども、いつ切れてもおかしくない頼りない繋がりを保たせているのは、「この人とはまだ話していよう」というわたしたちの意志に他ならない。相手が求めている何かを自分では満たせないことも、自分が求めている何かを相手には満たしてもらえないことも分かっている。分かっているのに切れないのは、やっぱりさみしいからなのだろう。わたしも相手も。

いまこの文章を書いているお正月休みのあいだも、わたしは出会い系を見ることをやめられない。職場の嫌いなあのひとも、初売りでごった返す百貨店でぶつかってきたあのひとも、疎遠になってしまった知り合いとも、出会い系を介してならさみしさを分かち合えるのに、とおもいながら。

文: なめこ(@vknty133)

編集:渡良瀬ニュータウン(@cqhack)

TOPに戻る

コラムカテゴリの最新記事