人々の多くは、日々の中で何らかの目標を掲げ、その達成に向かって頑張っていると思う。
それは、例えば所属する会社の売り上げ目標といった具体的な数字であったり、あるいは個人がその生涯の中で成し遂げたい、と願う何かであったりもする。もちろんその両方を同時に追いかけている場合もあるだろう。
この文章では、人が個人的な成長のために設定する目標としての「理想」と、それに対する考え方に問題があった過去の私が陥ってしまった、負の状態について書いていきたいと思う。
理想郷は遥か遠くに
昔から、脳裏に描いた「完璧な人」のイメージに憧れていた。
ここでいう完璧な人とは、あらゆる能力――例えば行動力・思考力・社会に適応する能力など――が平均よりも著しく高い人物のことである。果たしてそんな人間が現実に存在しているのかという点は重要ではなく、あくまでもひとつの理想として形作られた像を、自分の中に持っていた。
やがて高校を卒業し大学に進学した後は、完璧さへの憧れとともに、実際にその理想像のようになりたいと思う欲求が更に強まっていく。
理由はおそらく単純で、従来に比べてより自立した行動を求められることが増え、自分の足りない部分を埋めることの必要性が高まったからなのだと思う。
私の能力の値は、あるものが平均以上、あるものは平均以下(もしくはほぼゼロ)と大きなムラがあった。
また、軽度の躁鬱を繰り返す気分循環症という疾患の影響もあり、とにかく全体的に不安定。上で述べたような完璧さからは程遠い性質のものだった。
社会の一員として責任と共に行動することが増えると、自分の能力不足や気質が原因で上手くいかないことを人任せにできる機会が少なくなる。周囲に甘えて過ごしていると迷惑をかけるので「このままではいけない」と思うようにもなる。
特に得意なことで称賛される反面、一般に社会生活を円滑に送るうえで必須とされる能力(対人スキルやマネジメントスキルなど)のあまりの低さに他人に失望される経験はとてもストレスだった。
けれどそれよりも、他でもない自分自身が「こんな普通のことも満足にできない私は駄目なんだな」と強く感じていたことが、後に大きな苦しみを生む最大の原因になっていたのだ。
不完全な自分と自責の念
現状に問題があるなら、それを解決していくべきだと思った。足りない部分を補い、バランスの良い完璧な人間になれれば、自分は駄目なのだと悩み苦しむこともきっと無くなるだろう、と。
それから自分は、何かをする際には必ず「理想的な人間ならここでどのように考え、どう振る舞うだろう」と脳内で想定し、それを模倣するようになる。時には自分の中の理想像だけではなく、小説や映画などに登場する架空の有能な人物さえも参考にすることで、より状況に応じた完璧さを追求しようと試みていた。
そして夜に必ず布団の中で行っていたのは、一日の振り返りだ。
以前は苦手だという理由で殆ど顔を出さなかった大人数の集まりにも、社交性を身につけたくて参加してみた。短時間のあいだに大量の人間の顔を見て、会話し、その全てに対して適切な表情と言葉で対応しようと意気込んだ結果、疲労という言葉ではとても表せないような感覚に襲われて干物のような状態になった。
私の迷走は、静かに始まっていたのだ。
一連の試みによって、自分は「人間としての欠点を補う」という前向きな目標を見据えて進んでいると最初は思えていた。けれど、実は自然体の自分を否定したり、心がやりたくないと訴えていることを無視して行動を強要したりするような、心身に負担のかかる考え方をしていたことに後になってから気が付いた。
そもそも「完璧な人間」を想定しそれを模倣しようとしたのは、自分に足りていない能力を向上させることで、「こんな状態では人として駄目だ」という自責の念によって苦しむのをやめたかったからだ。
しかしながら、その方向性はいつの間にか変化していた。私はかつて抱いた「こんな風になれたらいいな」という思いを、無意識のうちに「こうしなければならない、それができなければ駄目」という抑圧的なものに変換し、結局は自分の首を絞めていた。
やがて、現状と理想を比べてうんざりする頻度がかなり増えた。
何をやっても自分に足りていない部分だけが目に付く。実体のない「完璧な人」の像を追いかける自分の存在自体が空虚で無意味なものにすら思えたし、逃げ場がなく、行き詰まっているという閉塞感にも苛まれた。
そうして落ち込んだときは、めまいを伴う異様なだるさや吐き気に襲われたり、目は覚めているのに身体が動かず起きられないという状態になったりすることが多くなった。そんな時は外出ができないので、授業は欠席し用事はキャンセルするほかない。
休んでいる間の一分一秒が無駄だと感じられ、自分を心の中で叱責した。
実際のところ、昔に比べて自分にできることは着実に増えていたし、理想には程遠くても、少しずつ前に進むということだけはできていた。しかしながら、当時の私にはそれを認識することが一切できなくなっていたのだ。
現状を受け入れること
その後は紆余曲折を経て精神科へと足を運んだ。心身に表れた症状によって日常生活に大きな支障が出ており、何らかの助けが必要だったためだ。
自分の今の状態とあるべき姿が乖離しており、思い描いたようになれないという悩みが原因である気がする――と担当医に話した。
先生の答えの中で印象的だったのは、たとえ上手くいかないときでも、現状を変えたりコントロールしたりしようと強く思わないことが大切であるというものだった。
つまり、自分の自然な状態を一度しっかりと受け入れるということ。それは何かができない時にも、良し悪しの基準を用いず、ただ淡々と「自分はこれができない人間なのだ」「今はこういう状態なのだ」と認めることを意味していた。
例えば心身のパフォーマンスが著しく低下している時に、焦って「早くこの状態から脱却しないと」と強く思うのはごく普通のことであるような気がする。しかしながら、それによって脳が「落ち込んでいる状態の自分は駄目だから、早急に改善されるべき」という認識を生むそうだ。
結果として心理的に休息を受け入れることが難しくなるので、そのままどんなに行動しても状態は良くならず、常に焦燥感に苛まれ続けるようになってしまう……とのこと。
また、そこから活動的になったからといって「元気がなかった時の遅れや損失を、今こそ取り戻そう!」と気合を入れると、その行為によっても「調子のいいときは全ての遅れを取り戻さなくてはならない」という一種の強迫観念が生まれる可能性があるという。だから長期的に精神状態を良好に保つ上ではあまり良くないそうだ。面倒なものである。
「まずは現状を受け入れる」なんて、どこかで聞いたことのあるような考え方だし、はじめは単なる気休めだと思っていた。だが、実際にこれを実行するのはかなり難しい。思えば私達は何かを言われたわけではなくても、あらゆる場面で無意識のうちに頑張っていることが多いな、ということに気付いた。
はじめの一歩
うまく使えば、目標を達成しようとする際の指標として便利な「理想」。自分にとってそれは案外扱い方の難しいものだった。これからは「人としてこんな風にならなければいけない」という執着から少し距離をおいて、本来の自分自身を必要以上に抑圧したり、痛めつけたりしないように心がけるつもりだ。
確かに、社会生活の中でやりたくないことを完全に避けて進むのは不可能に近い。自分の駄目さを外部から指摘されることも多くあると思う。けれど「嫌だな、やりたくない」「苦手だ」と自然に湧き上がる思いを否定せずに、ただ受け入れるだけなら何だかできそうな気がする。やる気の出ない時には、やる気の無いまま何かに取り組んでも別に構わないのだ。
ふとした瞬間に一度足を止め、完璧には程遠く、不安定な部分の多くある自分の姿を改めてしっかりと見つめる。そうすることで、ようやく本当の意味で一歩前へと進むことができるのかもしれない。
文:千野((@hirose_chino)
編集:渡良瀬ニュータウン(@cqhack)