レールの上から脱落した
現役で大学に入学した19歳の冬、僕は大学を中退した。
端的に言えばバカなので勉強についていけず、できないことをやろうとし続けるのが苦痛になり、ほとんど留年も決まった状態でメンタルがアウトになったのだ。
高校での成績はほぼ上位。学内偏差値で80オーバーを叩き出したり生徒会役員なんかをやって「良い子」をしていた僕には初めての挫折だった。と言えば聞こえは良いが、要はぬるい環境で生きていた人間が急に井の中から出たらビックリしてダメになったというだけなのだが、それは数年経った今だからこそ言えることである。
恩師からの推薦、親からの期待、身内への体面。いろいろぶら下げた重りは、逃げるという選択肢さえ気付かせてくれなかった。結局首を括りかけたり、その他諸々の自傷行為に身を窶してファッションメンヘラまがいの状態になったりして、最後には家出までした。
ようやく僕の現状が周囲に伝わり、「今更やめたいなんて、どうして無責任にそんなこと言うの」と怒鳴る両親を説得し、短い休学を経て、そのまま退学した。
どうするべきかもわからない
大学をやめたあとのことは全く決まっていない。高卒で働くなんてそもそも頭になかったのでどうしていいかわからなかったし、働ける体調でもなかった。別の大学に入学しなおしたい、と両親に話したら「もうお前には一切金をかけるつもりはない」と返された。
終わった、と思った。
皆、将来への期待なりやりたいことなり何らかのモチベーションなりを抱いて生きているのだと思う。そこまで大仰なことを考えてないという人だって、例えば美味い肉を食いたいとか、ソシャゲでSSRを当てたいとか、なにがしかの「したいこと」を持って今日を生き延びているんじゃないか。
その時の僕にはそれが一切なかった。生きることにおけるメリットより、デメリットが上回っていると感じながら呼吸していた。
家から追い出されないために働く
ゴミのような状態でも、息をして食事をして睡眠はとっていたので、季節は過ぎて春が来る。何もしない、どこにも所属していない、身分がないままの春。ついに家庭内でも人権がなくなった。いい加減働け、ということである。中退のゴタゴタとともに塾講師のアルバイトを辞めてからは、親に言える手段ではお金を稼いでいなかった。
履歴書を書いて面接を受けては落ちを繰り返し、暗にお前はいらないと方々から言われ続ける中で、最初に雇ってくれたのは日雇いの工場のラインだった。1日でばっくれた。
その後、田舎の倉庫で太った中国人に雇われた。野球バットの箱を開けて、シールを貼って、また箱に戻すという仕事だった気がする。一緒に働いていた湘南にいそうな見た目の男性が「俺こないだまでアメリカにいて、金なくなったから戻ってきたんすけど。向こうだと普通に大麻できるから良いんすよね」と言っていたことだけ、やけにはっきり覚えている。今思えば発達方面に何らかの障害を抱えていたと考えられる、やたら声が大きくて人に指図するのが大好きな割には自分は全く仕事ができないおばさんなどもいた。
“仕事をしている”ができれば、なんでもよかった
ところで、当時の僕はヒョロガリでモッサリした典型的なオタクタイプだった。当然のことながら肉体労働は向いていない。なのに、何となく花屋の作業場(接客ではなく、農家からダンボールで届く花を店に出せる状態にする)のバイトの面接を受けたら採用されてしまった。
職場はトラックが出入りする倉庫なので冷暖房が無く、暑い日も寒い日も重たいダンボールを100個単位で開けては潰し、水の入ったバケツを運んで、花の茎を切って浸した。百合の花粉が相当に強力で、軍手をつけて作業をしていても余裕で貫通して指先を黄色く染めてくると知った。
僕が大学から逃げ出して半年と少し。20歳の夏だった。
それでも何とか生き延びている
「そんなダメな人間実在するのか」と思った人もいるかもしれない。「なんだ、その程度のダメさ加減か」と思った人もいるかもしれない。
とにかく、普通に社会のレールに乗って過ごし、これから先もそれが続くのだと信じて疑わなかった人間も、簡単にダメになる。それでも死ななかったし、今ではあの時よくぞ生き延びたと過去の自分を褒めてやりたいという気持ちにまでになっている。転落しようが、レールから外れようが、逃げようが、「生きる」ということにポイントを当てるならそれらは一切問題にならないのだ。
レールに乗っている間は気づかなかったけれど、レールの外にもきちんと道は続いているし、存外それが楽しいものだったりする。進みたい方向は自分で好きに決められる。
次回はこれだけダメだった僕が、今でもダメなりにやりたいことを決めて生きられている話をします。
文:愚(@ayawasca_yage)