カジュアルに人と縁を切る3つの方法

年々、人を許すのが難しくなってきた。

もともと懐が広い方ではないし、人に何かをされてイヤな思いをすれば、とことん根に持つタイプだった。たとえ相手が反省していたとしても、どれだけ言葉を尽くして謝られたとしても、わたしはその人を許すことができなかった。あるとき自分がその人によってイヤな思いをさせられたという事実は、永遠に変わらないからだ。

 

つまりわたしは、むかしから人を許すことが決して得意ではなかった。それが歳をとるにつれ、ますます苦手になってきた。「許せない」と思うポイントがいちじるしく増えてきたのである。そしてその結果、「カジュアルに人と縁を切る」ようになった。カジュアルに人と縁を切る――いったいこいつは何を言っているのだ、と思われただろうか。ごもっともである。恩も義理もへったくれもない不道徳な人間であることは、自分が一番わかっている。

 

けれどもこの文章では、「カジュアルに人と縁を切る」ことをネガティブにとらえすぎないようにしたいと思う。それは何故か。イヤなことをイヤと言えず、許せないことを許せないと怒れずにいたわたし自身に、「カジュアルに人と縁を切る」ことがいくばくかの救いをもたらしたからである。もちろん、気軽に人と絶縁するのにはリスクがともなう。自分への信用を失ったり、取り返しがつかないほど複雑な感情のもつれが生じたり、下手したらもっと深刻な事態に陥る可能性だってある。それでも、だ。ときには逃げた方が良い局面もある。

 

「カジュアルに人と縁を切る」ことに対する価値判断は、この文章を読んでくれているひとのそれぞれに委ねたい。「なんて不届きな輩だ」と反面教師にするもよし(実際そのとおりです)。あるいは、「世の中にはこんなダメなやつがいるのか、自分なんてまだまだマシな方だな」と、背中を押されるもよし(これも実際そのとおりです)

 

とにかく人間と関わることがめっぽう苦手で、他者の意見に必要以上に同調してしまう。そのくせ勝手に押し殺した自分の考えや欲望を持て余し、何もかもがつらくなって孤独感に打ちのめされる――。そんなダメさを抱えるわたしが、少しでもダメじゃなくなるために発明したライフハックが、「カジュアルに人と縁を切る」だったのだ。

 

1.我慢しない

実はこれがいっとう難しい。イヤだと思ったとき、許せないと感じたとき、人はどうするのだろう。不愉快であることを相手にそれとなく伝えるのか? いったいどうやって? そういう場面に出くわしたとき、わたしが反射的に取る対応は、一にも二にも「我慢」であった(今でもときどきしてしまうけれど)

 

どんなに怒りが沸き立っていたとしても、顔にはへらへらと笑みを浮かべてしまう。そうすれば、十中八九その場は穏便に誤魔化せる。けれども辛いのは一人になってからだ。自分の感情をないがしろにしたツケが回ってくる。どうしてあのときイヤだと言わなかったのか、どうしてあのとき怒りを表さなかったのか。自分に対する不甲斐なさと、相手に対する憤りがごちゃまぜになるけれど、何回かは「我慢」できる。けれども、自己韜晦と自己嫌悪をしばらく繰り返していると、あるとき突然、感情が爆発してしまう。自分でも気付かないうちに、限界を越えてしまっているのだ。

 

負の感情――特に怒りを対面で伝えることは、かなり高度なコミュニケーションではないだろうか。「イヤだと思ったとき、その場でイヤだと言えないから人との関係がこじれていくのだ」と反省し、イヤな気持ちをなるたけ相手に伝えようと努力したこともあるけれど、実際わたしには上手くできなかった。言えないことを言おうとすることで、余計に心身がこわばってしまったのだ。

 

そこで発想を変えた。もう、我慢しない。イヤなことをされたら、その時点で相手を切る。どうしてそれがイヤなのか、どんな風にイヤなのか――自分ひとりで向き合うことすらしんどい負の感情を他人に説明しようとするストレスを、無理に抱え込もうとする必要はないじゃないか(どうしても失いたくない相手なら話は別だけれど)

 

どうしてわたしがそんな考えにいたったのかというと、ある前向きな諦めにいたったからだ。

 

2.わかりあおうと思わない

その諦めとはつまり、他人とわかりあおうと、わかりあえると思わないことである。

 

十代から二十代後半にかけてのわたしは、何かにつけて人と衝突ばかりしていた。というのも、先に述べたとおり、我慢に我慢を重ねて不意に不満を爆発させるからで、その都度相手方に「突撃」としか言いようのないつっかかり方をしていた。今思えば迷惑の一言に尽きるけれど、当時は必死だった。必死さの裏側には、「わかりあいたい」という痛切なさみしさがあったのだろう。あなたをわかりたい、あなたにわかってほしい。どんな相手にも手加減ができない余裕のなさと、どんな相手にも期待をしてしまう愚直さは、かつてのわたしの美点と言えなくもなかったかもしれないが、それらは同時にわたしの欠点でもあった。

 

そうやって衝突した大抵の人が――というか、ほぼ全員の人が、わたしを「わかって」くれることはなかったからだ。考えてみれば当然である。わかりたいと思っていたのも、わかってほしいと思っていたのも、すべて自分のひとりよがりに他ならないからだ。にもかかわらず、当時のわたしはわかりあえないことに対して身勝手に傷ついていた。自分は全力で相手と向き合おうとしているのに、相手は同じだけのエネルギーを返してくれないとか。自分はすべてを打ち明けたけれど、相手は本心をさらけ出してくれないとか。自分がされてイヤなことを伝えても、相手が一向に悪びれないとか。

 

話せばきっとわかりあえる、という期待は、相手だけでなく自分の首を絞めることにもつながる。だからわたしはわかりあうことを諦めたのだった。イヤな思いをしたら、許せないと思ったら、衝突するのではなく、ふっと姿を消す。場合によってはとてつもなく失礼な行為だし、それが吉と出るか凶と出るかはわからないけれど、自分が壊れるまえに逃げるという選択肢が、ひとつくらいあってもいいのではないか。

 

3.返信しない

「我慢しない」「わかりあおうと思わない」と、感情の問題が2つ続いてしまったけれど、最後の1つはごく具体的な行動だ(というより、非行動?)。

たとえば、ネガティブな感情をあらわすことと同様、気の進まない誘いを断ることもわたしにとっては難易度が高い。ほんとうは行きたくない用事でも、誘われたらつい「行きたい」と答えてしまう。このメンバーで遊ぶのはしんどいな、この人と二人きりになるのは気が重いな、と感じていても、適当な理由をつけて咄嗟に回避することができないのだ。そして「いいね、何日なら空いてるよ」と安請負いをした結果、約束の日まで沈んだ気分で過ごすことになる。

当日きちんと遊びに行けることもあるけれど、近くなってから耐えきれずドタキャンをしてしまうことも多い。最初から断っておけばいいようなものだけれど、それができないから難儀な性格なのである。断れないなら、どうするか。「そもそも返事をしなければいいのでは?」というのが、わたしのひねりだしたひとつの答えだ。

遊びに誘われたケースを例に挙げたけれど、それ以外でも、望まないとき、望まない相手から望まない連絡がくることは多い。そういうとき、わたしは一切の返信をしないことにした。返信したくなったら、あるいは返信せざるを得ない場面になったら、どうせイヤでも返さなければならなくなる。であるならば、気乗りしない状況で、気乗りしない相手に無理に返信をする必要はない。それでイヤな相手と自然に縁が切れるならラッキーだし、しつこくされたらブロックという手がある。

……と、ここまで書いてきたはいいものの、どうしたって絶縁できない相手もいるだろう。家族、同僚、クラスメイト。現に所属している集団では、さまざましがらみにとらわれて、その構成員と縁を切るのは困難だ。でも、離れたくても離れられない人間とつながっていなければならないからこそ、それ以外の場においてまで、ストレスフルな人間関係を築きたくはない。

カジュアルに人と縁を切る――こんな手を打つまでもなく、もっと器用に、もっと適切なかたちで他人と関係できたら良かったのかもしれないけれど。できないものはできないのだから、今更しようがない。今日もわたしはカジュアルに人と縁を切る。自分のなけなしの体力や時間を、すきなひとたちに捧げたいと思うから。

 

文: なめこ(@vknty133)

編集:渡良瀬ニュータウン(@cqhack)

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