役者最強説――円滑なコミュニケーションと世界を広げるために自分を演じる

好き嫌いが激しい僕のせいで、友人がラードと呼ばれた

餅が嫌いだ。単体だと味っ気があまりなくて、ねばねばとした食感が口中に広がる。歯で砕いて小さな塊にしなければ飲み込めないのが面倒だし、飲み込んだ後も喉のあたりにねばっこい感触が残り続ける。小さいころから、どうして正月になると、どこの家庭でも餅を食べるのか不思議でならなかった。

苦手な食べ物は他にもある。餅と同じく、ねばねばとした食感が駄目で海藻は食べられないし、茎ともしゃもしゃした部分との味の違いが駄目でブロッコリーが食べられない。こんな具合に、僕は好き嫌いが激しいせいで、小学生のときは時間内に給食を食べ終えることができず、昼休みになっても完食するまで教室に残されることが多かった。週に三回ほどはそんな状況だったから、見かねた友人が、こっそりと僕の嫌いなメニューを食べてくれるようになった。

だが、人よりも多く食べているわけだから、友人はだんだん肥満児になっていき、僕は痩せ細っていった。僕が痩せるのは僕の責任だからいいとしても、友人が見る見るうちに太っていくのには、心苦しいものがあった。

いつしか友人は、女子に陰で「ラード」というあだ名をつけられており、それを聞いたとき、この状況をどうにかしないといけないと思った。

 

嘘をつくことで自分を追い込み、相手の期待する人間を演じる

とは言え、苦手なものは苦手なままだ。そこで、自分を騙して、例えばブロッコリーが好きな自分を「演じて」しまえばいいではないかと考えるようになった。給食は近くの子と席をくっつけて食べるから、そのときに出てきたメニューに嫌いなものがあれば、あえてそれを好きだと言う。すると、周りには○○が好きな自分として見られるわけだから、人前でそれを残しにくくなる。残してしまうと、奇天烈な人間だと思われ、あとの人間関係が怖い。そうやって、僕は給食の時間に嫌いなものを無理矢理胃袋に納めていった。

 

食べ物のことにだけふれてきたが、社会に出てから、この「自分を演じる」ことは人と接する際にも役に立つということがわかった。接待のような場では取引先のほぼ初見の人と話すことがあるし、職場でも上司や同僚などと世間話をしなくてはならない。学生時代のように、好きな人とだけ接していればいい世の中ではなくなってしまう。そのときに相手の話に「へー」だとか「ふーん」だとか適当な相槌を打ったり、無関心な素振りを見せたりすると、会社での立場・人間関係が悪くなりかねない。そのため、例えば職場でワールドカップの話をされたら、サッカーに「興味がある」自分を演じて、相手に話を合わせる。日本がコロンビアに勝った話を振られたら、サッカーに興味があるが、時間がなくて見られなかったことにし、誰がゴールを決めたかなどを聞き出すといった具合に。

 

自分を演じることで、新たな出会いが待っている

演じているうちに好きになることもある。最初、相手の話しているものに関心がなかったとしても、興味がある人を演じて話をどんどん聞いていくと、それに惹かれていくことがある。相手はある程度の知識があるわけだから、詳しい話を聞かせてくれる。その場の状況を打開するために行われていた自分を演じるという行為が、気が付くと自分の世界を広げてくれることもあるのだ。

だが、相手の話に対する予備知識がない場合に自分を演じると、ただの知ったかぶりの人間になってしまう。サッカーを知らない人間は日本にはまずいないから、サッカーに興味がある人間を演じることはできるが、カバディの話を振られて、知らないのにそれを知っている人間のふりはできない。相手の話がマイナーであればマイナーであるほど、演じられる幅は狭まってしまう。そのときは正直に知らないと言うしかない。でなければ、僕のようにインドア派で、エアレースをまったく知らないのに、その観戦に連れていかれるはめになってしまうかもしれない……。

 

(文:谷村行海)

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